第六話『もうひとつの顔』
ナポレオンを飲んでいた。わたしは普段はアルコールを嗜まないが、時と場合、相手によっては羽目を外すこともあるのだ。
お相手は三十半ばの美貌の未亡人。さらに、子供が二人いるとは思えない若々しい身体、形良く突き出た薄手のウールのセーター、膝小僧が悩ましげなチェックのタイトスカート、とこれだけでも完全にノックアウトだ。わたしは男でもタイトスカートを穿かれたら惚れちゃうくらい、滅茶苦茶に弱いのだ。
おまけに話し上手で、ウィットに富んだ話が縦横に飛び交う、ときたら男として楽しくないはずがなかろう。"まあ飲みねぇ、寿司喰いねぇ"のドンチャン状態が続いていた。
「ちょっとトイレに行って来ます」と彼女が席を立った。
しばらくして戻ってきたが、どうにもおかしい、妙だ。
姿服装は彼女だが、彼女であって彼女ではない感じがする。意味が分からないだろうが、そう、それほどに奇妙なのだ。簡単にいえば、中身が違う、そんな感じだ。
それを裏付けるようなことが起き始めた。
話が噛み合わない。面白くも何ともない。「わたし、わかんない」を連発する。突如としてIQが30ぐらい低下した。それに美しさも影を潜め、貧相な容貌だ。
これはおかしい、確実に変だ、早急に確認せねばなるまい、と決心した。
同時に、「あなた、誰?」と口が言葉を発していた。「ボクは、あなたと話をしたくないんだがなぁ」口が勝手にベラベラとしゃべった。
「あらぁ、わたしじゃダメですかぁ?」舌足らずの口調で言うと、眉をひそめた。
突如、切り替わった! 「わたしなら、よろしいですか?」歯切れの良さとその笑顔は、先ほどのものだ。知性と美貌とその他諸々が、すべて元に戻った。
なんだ、これは??? お化け??? 人格変換! 二重人格! ジキルとハイド氏!
一体、オレは何を目にしているのだ??? これは、現実か?
混乱するわたしを、優しい笑顔が見つめている。
「ねぇ、もう一度やって、お願い」わたしもバカだ。とことんバカだ。なによりも目前の興味が最優先した。
「でも、これ結構に疲れるのですよ。それに人前でやるのは初めてなのです」
彼女はまた眉をしかめると眉間にしわを寄せた。
ブルンと振動し、人相が変化した。そこにはIQの低い彼女がいた。
よーし、絶対に同じ人間ではない、人格が違う、わたしはまじまじと見つめそう確信した。
また顔が揺れ、元に戻った。「ふうーっ、疲れたわ」と輝く笑顔が言った。
余程、わたしの驚いた顔が可笑しかったのだろう、アッハッハと声を出して笑った。
「ねぇ、切り替えスイッチがどこにあるのか、当ててみませんか?」
今度は、いたずらっ子の目だ。こっちの力量を試している。
チックショウメ、わたしは全知全能もてる限りのフルパワーを出した。
さっきは瞬時に切り替わった・・・その時、左右の顔の配置が微妙にずれた。ということは、左右の大脳を切り替えたわけだな・・・。丁度、鏡で左右どちらかの顔を映し出すようにだ。
脳の神経は交差しているから左脳が顔の右、右脳が左半分を司るが、それ以前に大脳の切り替えを自分の意志で出来るものなのか? 脳にだってNFB制御が効いているぞ、それを逸脱した行動は不可能のはずだが・・・まてよ、と考え直した。
・・・あったぞ!
NFB【Negative Feed Back】は自動制御の要、通常は安定を目的とするが同時に暴走をも食い止める。
だが脳神経にも例外がたったひとつだけあった。気分の高揚や情動を司る"A10神経"だ。こいつは前頭葉を貫き大脳に繋がっている。さらには、前頭葉への電気ショック、ロボトミー手術は感情を鈍らせるものだ。
「・・・分かったよ、前頭葉、つまり額のど真ん中だ」
「すごい、すごいーっ!」彼女は、無邪気にはしゃいでくれた。
良く出来た作り話さ、と思われるだろうが、実はこれはまったくのノンフィクションだ。
事実は小説よりも、はるかに奇なり。さらには、人間の内なる部分には何ものかが潜む・・・と固く固く信じさせる事件だった。
断って置くが、このあとご期待通りの艶めく展開には、残念ながらならなかった。それどころか、女性の怖さを骨の髄まで知る体験が後に待っていようとは・・・。
そのことは、いずれまた・・・。
第五話『複合民族国家』