第二話『狂気の価値』

という本を『西丸四方』氏が随分と前に書いている。
盲腸にも必然があり、風邪を引くのも何かの必然だとすれば、当然、狂気にも必然があってしかるべきだ。というような内容ではなかったが、多分似たようなものだろう。西丸さん、ごめんなさい、すでに記憶にありません。

昼下がりの閉鎖病棟は、きょうも賑やかだ。
ブツブツと独語(ドイツ語ではない。独り言)を唱える者、ウロウロとホールを歩き回り「邪魔だっ」と突き飛ばされる者、ガッハッハと大声で笑う者、意味もなくシクシクと泣く者、「食事をまだ食べていません」と看護婦にすがり「夕食はまだなのよ」とやさしく諭されている者、「タバコ頂戴」とナースステーションに手を差し出し「1時間に1本。5分前に吸ったばかりでしょ!」と怒られる者。

「おーい、トランプやろう」と呼ばれ仲間に加わる。
鬱患者が、ギロリと光る目でわたしを睨む。緊張型の精神分裂患者がニコリともせず、カードを配る。
「お茶っ」だれかがコップを脇に乱暴に置いた。バンッ! と後頭部が鳴る。
「お茶でしょ」怒りに燃えた瞳だ。
「あっ、ありがとね」後頭部を叩いてくれた礼を述べると、ハンチントン舞踏病の彼女は手を振り回しながら嬉しそうに離れていった。

パンツ一枚の男性精神分裂患者がホールを闊歩している。衣服を抱えた看護婦がその後ろを追いかける。
「どうしたの?」
「どうしても服を着てくれないのよ、困ってるの」と看護婦。
わたしは、彼に尋ねた。「どうして服を着ないのですか?」
彼は答える。「わたしは、風邪を引かなくてはいけないんです」
分裂病の患者は、時として妙な使命感を持つ。彼も何かの指示を与えられたのだろう。
「そうですか、でもあなたは希にみる特異体質なのです。あなたの場合は服を着なければ風邪を引きませんね」
「やっ、ホントですか!」たちまち、看護婦の手から服が消えた。

「腕相撲しようよ」鬱の患者が手を伸ばした。
テーブルの上を片づけて相手をする。なかなかに強い、互角だ。
んん・・・ちょっと待てよ、「手を見せてくれ!」わたしは急いで患者の腕を取った。
やはりそうだ。手首を横断する赤いリストカットの跡。しかも綺麗に治っている。
わずか4日ほどで・・・どうして治るのだ? しかも、縫わなかった傷だぞ?

そういえば、元気に徘徊しているあの精神分裂の彼もそうだ。レントゲンで見れば胃も腸もとうに機能していない。癌が進みすぎているのだ。でも、なぜ生きているのだろう? 食べ物をどうやって消化しているのだ?

昼下がりの精神病棟をさわやかな風が吹き抜ける。
ここには、"不思議"が普通の顔をして歩いている。
狂気の価値が、一人歩きをしているのだ。


第一話『タバコ飲みの効用』