第十話『−184℃』

これから極低温の世界にご案内しよう。−184℃とは酸素が液体に変わる温度なのだ。
地球上で得られる極低温は、せいぜい−100℃。しかも極地でなければ得られない。
−184℃の世界は、従ってほとんどの方には未知の世界のはず。

空気は78%の"窒素"と21%の"酸素"でできている。もちろん大雑把だ。正確には残り1%に"炭酸ガス"もあれば"ネオン"も"ヘリウム"もあるが、ここで登場するのは"窒素""酸素"そして少量の"炭酸ガス"だけなのだ。

−196℃の"液体窒素"を熱交換機に通し、コンプレッサーで圧縮された空気を冷やす。
単純な装置だが、この冷気を密封された部屋に送り込めば、極低温の世界が出現する。
理屈はそうなのだが理屈通りにいかないのが世の常。−80℃程度まで順調に冷却された空気が突如として噴出を止める。原因は"炭酸ガス"だ。空気中の炭酸ガスが"ドライアイス"と化すのがこの温度。発生したドライアイスは熱交換機のフィンを詰まらせる。
湿度除去、炭酸ガス除去装置が付加され、ようやくのこと装置は−100℃を越えて下がり始めた。
密封されたドアの隙間から冷気が白く漏れ始める。だが多少の吹き出しはやむを得ない。これ以降の温度領域での完全シール材などこの世には存在しない。

−100℃を通過すると−150℃辺りまでは苦もなく到達する。
この温度だと1分半から2分、極低温室にいることができる。それ以上の長居は皮膚が瞬間的に凍傷を引き起こすので危険だ。また、テレビ等の取材時のパフォーマンスをやるのもこの温度だ。バラの花を瀬戸物状態に変え、バナナで釘を打つ。
液体窒素の量を増やすと、ブーンと熱交換機が唸りを上げる。
−160℃を越え−170℃に近づく。降下速度がわずか鈍り始めた。そろそろ装置の限界領域に入ったのだ。
デジタル温度計が−180℃を指す。いつものことだがオペレーションカウンターのわたしの胃が痛み出す。これから先は瞬時のリアクションが要求される。
酸素濃度計に目を走らせる。極低温室の各所にしつらえた5本の濃度計はいずれも21%を指している。

−181℃・・・−182℃、ジリジリとカタツムリの歩み寄りものろい。−183℃・・・−184℃、表示と同時に酸素濃度計に目をやる。まだ変化はない。
数人が水着一枚で極低温室に入った。分厚いガラス窓越しに動きがおぼろに見える。さあ、これからが勝負だ!
ピッと軽いアラーム、床近くの酸素濃度がまず下降を始めた。・・・20%を切る、19.5%に近づく。室内中央の高さに位置する濃度計もわずか遅れて追随する。指が赤いレバーに伸びる。入室してから10秒・・・15秒・・・。
酸素が19%に落ちた。セットされた自動スイッチより速く手動でレバーを開ける。緊急用の大型酸素ボンベ、16本の一挙開放だ。銅配管が唸りを上げ室内に酸素を急速に流し込む。人間は酸素濃度18%で失神、15%では死に至る。

−184℃、大型のデジタル温度計の赤いLED表示は変わらず。これよりの降下はなし。20秒経過!
室内では、冷気放出口から"液体酸素"の雨が大量に吹き出しているはずだ。冷気の白煙のため内部はよく見えない。火傷をしないでくれ、と祈る。皮膚に当たっても爆発するだけだが、注意は肝心だ。
25秒経過、酸素濃度が21%に戻ったのを機会にレバーを閉める。熱交換機に流す液体窒素の噴出を弱冠弱める。
28秒、29秒、30秒、時間だ! マイクを握り全員に室外退去を勧告する。

極低温の世界は、未知の領域だ。わたしたちの身体が異質な環境にさらされたときどのように反応するか、残念ながらまだ分かっていない。ただ、体験的に言えることはわたしたしの身体は予想外に強靱に造られているということだ。
信じられないだろうが、この極低温の空気を深呼吸できる。さらには二日酔いを瞬間的に消す。リュウマチや怪我の痛みを消失させる。痛みが消えている間に運動して筋肉を強化する。そうなのだ、疼痛の治療に有効なのだ。さらには、副腎皮質ホルモンを多量に分泌させ、一種のドーピング状態までも造る。

あるとき、"液体ヘリウム"を使いたい、との話が持ち上がった。
何事にも興味津々のわたしだが、このときだけは理性が猛烈に反発した。
「超伝導を知らないのか。皮膚で超伝導が発生したら神経系はどうなるのだ。負荷を外された強大な神経電流に神経繊維も筋肉も耐えられると思うのか!」
この話はそれで立ち消えになったが、実を言うと本心は覗いてみたくて仕方がないのだ。
−269℃・・・"絶対温度"まで4.2℃の世界を・・・。


第九話『フェヒナーの法則』