旧東海道
三島宿
沼津宿
原宿
吉原宿

岩淵宿(間宿)


蒲原宿


由比宿
慶長六年(一六〇一)、江戸幕府は東海道に宿駅伝馬制を設け、由比宿はこの年に宿場として指定されました。東海道五十三次が確定したのは三代将軍家光のころで、由比宿は江戸から十六番目の宿場でした。宿内には大名や高貴な人が宿泊する本陣、彼らの道中での馬や人足を調達する問屋場、一般旅客の宿泊・休憩する旅籠・茶屋などがありました。由比の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は、鎌倉時代より続く由比氏の系統で、江戸時代は代々「岩辺郷右衛門」を名乗りました。天保十四年(一八四三)の「東海道宿村大概帳」によると、由比宿の町並みは東西五町半(約六〇〇メートル)、宿高は三四〇石、人口は七〇七人、戸数は一六〇軒あり、このうち本陣一、脇本陣一、旅籠三二となっています。このように由比宿は小規模であったため、義務であった百人・百匹の常備の人馬をおくことができず、近隣の村を加宿とし応援をしてもらいました。宿場の西端にある由比川は仮板橋で、大水が出るときは取り外すので川留め(通行止め)となりました。また、宿場の東西の入口には万一の攻撃に備えて街道をカギの手に曲げた枡形があり、今でもその面影を残しています。由比宿の中心であった由比本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、離れ座敷がありました。惜しくもその多くは失われてしまいましたが、一三〇〇坪(約四三〇〇平方メートル)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣などが当時の姿を留めています。(説明文から)

興津宿


江尻宿

府中宿

府中宿は江戸から約44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場です。東見付は横田町、西見付は川越町にあり、天保14年(1843年)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいでした。また、参勤交代の大名たちは、家康公の祖母の菩提寺である華陽院にお参りしました。家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。(説明文から)

府中宿東見附
横田町は駿府でも古い地名のひとつで、横田の名は平安中期の書物にも登場しています。江戸時代、府中宿は、上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場、旅籠が四十三件もある東海道最大規模の宿場でした。伝馬町から呉服町、高札場のある札の辻の七軒町、新通り川越町の西見附まで二十七の町で構成されており、ここ横田町には、駿府城下町に入るための東の入り口である「東見附」が置かれていました。徳川家康公は、一六〇七年に大御所として駿府(府中)に入られ、天下泰平の基礎を、亡くなるまでの九年間、この地で固めたのです。(説明文)


丸子宿

駿河国有度郡丸子宿
駿府町奉行支配所
一、丸子宿の成立
  慶長六年(一六〇一年)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される
一、位置
  江戸へ四十六里四町四十間(約百八十四粁) 府中へ一里十六町 岡部 へ二里
一、宿内家並 東西長さ三百五十間(六百三十米)
一、宿内人口 総数七九五人 内男三六六人女四二九人
一、宿内総家数 二百十一軒
一、宿泊施設 本陣一軒建坪二百八十坪 脇本陣二軒 旅籠屋大二軒 中十六軒 小六軒
一、問屋場 一ケ所 人足百人 馬百疋
一、高札場 一ケ所 宿西入口に建つ
(説明文から抜粋)

岡部宿
大旅籠柏屋


藤枝宿


島田宿


金谷宿

脇本陣
(角屋、金原三郎右衛門家)跡
脇本陣とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。元禄〜正徳(一六八八〜一七一五)ころの家並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。寛政三(一七九一)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから10年後の享和二(一八〇二)年の記録では、幕府からの拝借金で玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。天保十四〜安政六(一八四三〜一八五九)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪一〇五坪(三四六、五u)、玄関付(門構えなし)と記録されています。これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は、享保十九(一七三八)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(一八一八〜一八三〇)から明治三(一八七〇)年の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。
島田市教育委員会
島田宿金谷宿史跡保存会

日坂宿
東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」
江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(一三一〇)の「夫木和歌抄」といわれています。慶長六年(一六〇一)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。天保十四年(一八四三)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(七〇〇メートル)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。
日坂地域振興の会
日坂宿おこし委員会
(説明文から)


掛川宿
袋井宿


見付宿


浜松宿
舞坂宿
新居宿

白須賀宿