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本堂【撮影】H31.2.3 |
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平沢寺【撮影】H15.2.3 写真左側は身代り地蔵尊。 |
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「案内看板の内容」 平沢寺(布袋山自在院平沢寺) 平沢寺は、和銅年間に法相宗の高僧、行基上人が諸国行脚(七一〇〜七一三)の途中、この地に立ち寄り、地蔵尊を彫刻して草堂を建て安置したことに始まるという。養老二年(七一八)、元正天皇の十八歳になる皇子(後の聖武天皇)の病状が悪化したため、諸国社寺で皇子の病気平癒祈願が行われ、行基上人は再度駿河国を訪れた。(続き) |
| (続き)行基上人は高さ五十メートル、直径二十四メートルのクスの木を伐り、七体の観世音像を刻み、二十一日間、皇子の病気回復を祈願したところ、不思議なことに皇子の病気は快方に向い治ったといわれる。行基上人は七体の観世音像のうち最初の一体を当寺に、続いて順次、駿河国安倍郡の六つの寺に一体ずつ安置した。この七体の観世音像の安置されているところが「安倍七観音の霊場」といわれている。寿永二年(一一八三)野火が元で山火事となり観音堂・鐘楼・山門等の七堂伽藍を焼失したが、幸い当寺の本尊である千手観音菩薩と延命地蔵尊はともに無事であった。その後、今川泰範の頃、星明坊良盛という名僧が当寺の住職となってから参詣者も増え隆盛となったといわれている。守護大名今川義元もこの観音を信仰し、参詣の際に休憩する仮殿(殿屋敷)を造ったほど信仰が厚かった。また、毎年二月の節分と七年に一度(四月中旬)の観音御開帳には、多くの参詣者でにぎわう。 昭和六十年一月静岡市 (案内看板の内容) 平沢身代り地蔵尊縁起 この地蔵尊の御由来は、昭和60年一月吉日、当山檀信徒御一同の協力を得て、山内に鐘楼再建計画の際、境内観音堂床下より数個の御佛象片が発見されたことに依るものであります。当時、関係者一同これも尊き御佛縁かと、相計り、この御佛片をもって富山県高岡市在住・佛師本江忠司氏の手をわずらわし、一体の地蔵尊を鋳造いたしました。その後、完成の地蔵尊を当山に運搬の途次(昭和六十一年正月)名神高速道路の関ケ原附近路上において、交通事故に遭遇、転倒した車は数回転の末、殆ど原型を止めぬ程に大破いたしましたが、車中の地蔵尊は、あたかも運転中の本江支の背後に庇護するかの如く寄り添いある為、氏はいささかの怪我もなく、現場検証の警官も、ただ感銘するのみであったと申します。更にこの地蔵尊は本江氏の要望もあり、氏の宅前に安置されておりましたが、地蔵尊の御温容にうたれた近在の老人が杖にすがりつつ毎朝参拝を続け、永年の持病である中風が僅か三ヶ月余りにして全く快癒したというのであります。ここに、かくも当山に御佛縁深く霊験あらたかな「平沢身代り地蔵尊」を歓請安置し、当山御参詣の皆様の御多祥と無病息災を切に祈念するものであります。合掌 昭和六十三年二月三日 布袋山自在院平沢寺 住職山本快暁 記 |